29日 2月 2016
女子サッカーのリオ五輪アジア最終予選が始まった。6か国総当たりのリーグ戦で、上位2か国だけが五輪切符を手に出来る狭き門だ。しかも10日間の強行日程だが、日本はホームだから大きなアドバンテージがある。初戦はオーストラリア。嘗てのなでしこの実力が発揮出来れば勝利は固いと思っていた。ところが、ゲームが始まると、一方的にオーストラリアのペース。寄せが速い。キビキビと動く。一方なでしこはモタモタしていてボールを保持出来ない。我が家のテレビ観戦は、前半で見切りをつけてチャンネルを回した。それにしても何故こんなに弱くなってしまったのだろう。オーストラリアの監督は試合終了後に「まさに歴史的勝利だ」と歓喜の声を上げたとか。対日本戦に照準を絞り、日本の布陣を徹底的に研究したようだ。一方なでしこは沢選手は抜けたものの不動のメンバー。不動と言うよりは、変わり映えがしないと言うべきだろう。メンバーが固定されているから戦術が読まれ易いし、マークもし易い。初歩的な戦術ミスだ。佐々木監督がなでしこを率いて8年になる。昨年監督に再任された時、本人は「またやるの」と漏らしたし、自分も佐々木続投を奇異に感じた。その時既に佐々木の監督しての賞味期限は過ぎていたからだ。日本サッカー協会は、チームの更なる強化よりもリスク回避の安全志向で佐々木を選んだ。それがそもそものミスだった。昨年は沢選手もいたが、監督の采配ミスで試合を壊すことが多かった。新戦術を打ち出せず、かつ若手を抜擢せずに古株選手に固定した。相手に手の内を全て曝しているようなものだ。少し研究すれば、日本のツボを抑えるのは容易。更に対オーストラリア戦では、監督のリスク回避体質が、選手にも伝染したようだ。リスクをとって攻める選手がいなかった。さて、残り4戦でリスクを取った開き直りが出来るのだろうか。
28日 2月 2016
国内最大の市民マラソン「東京マラソン」が行われ、3万6000人のランナーが都心を駆け抜けた。今年で10回目を迎え、市民マラソンとして定着したようだ。大会には海外から参加するランナーが年々増えていて、今年は85の国と地域から6000人を超える人が参加したとのこと。外国語で対応できるボランティアも多く集まり、警備も厳戒態勢で臨み心配したテロも起きなかった。2020年の東京五輪の予行演習としては、まあまあの出来だったのかもしれない。ところが日本人ランナーの成績は寂しい限りだった。リオ五輪派遣設定記録は2時間6分30秒。それに対し日本人トップは一般参加のランナーで2時間10分57秒で8位。日本陸連が強化をしているはずのナショナルチームの成果は全く出ていない。男子マラソンの日本記録は、高岡選手が2002年に出した2時間6分16秒だが、記録は14年も更新されていない。世界のマラソンは高速化しているが、日本は乗り遅れている。日本陸連は、選考方法には熱心だが、選手強化には興味が無いのかもしれない。不透明な選考でマスコミを賑わすよりは、選手強化に力を注いでほしいものだと思う。いつまでも大昔に成績を残した指導者の昔ながらの指導に頼っているのも、振るわぬ一因に違いない。過去の成功例が、足を引っ張るのは会社経営と全く同じ構図と言えそうだ。
27日 2月 2016
一票の格差は、国会の決議により是正することは可能だ。しかし、決議するのは選挙で選ばれた議員本人だから、大方が満足する是正案を作るのが難しいのは当たり前だ。だから衆院議長の諮問機関である衆院選挙制度調査会に答申を依頼した。そしてアダムズ方式が提案されて、格差は1.5倍程度に収まるはずであった。だが、自民が拒否したため衆院選挙制度調査会の努力も徒労に終わろうとしている。公平な第三者機関が改革案を作成しても、決めるのは議員たちだから拒否されてしまった。では、この議員たちが動かざるを得ないような仕組みが出来ないだろうかと考えてみた。選挙の一票は国民の権利だが、納税は国民の義務だ。権利と義務は表裏一体の関係にある。一票に格差があるということは、権利の一部が毀損されているという事だ。権利の一部が履行出来ないのであれば、国民の義務も一部やらなくても良いと考えてもよい。と言う事は、税金もその分ディスカウントされるべきものだ。例えば、一票の格差に応じて、所得税を格差分補正する。一票の価値が低い所には格差分減額するとか、反対に、一票の価値の高い所に格差分の倍率をかける。そうすれば、国民は必死に格差を無くそうと声をあげる。議員たちは選挙民の声を聞かざるを得ないから、動かざるを得なくなる。なかなか良いシステムだと思う。だが、この案にはただ一つ欠点がある。その法案を国会で成立させるには議員たちの挙手が必要なことだ。衆院選挙制度調査会の答申と同様に法案作成以前にボツにされてしまう。さて、より良い案はないものだろうか。
26日 2月 2016
国政選挙の一票の格差について、各党の主張がバラバラだ。野田元首相の「あの約束はどうなるのか」と言う質問を躱すべく、安倍首相はアダムズ方式の導入は認めないものの「0増6減を達成する」と、しどろもどろに仕方なく認めた。見ていてこれが我が国の首相なのかと悲しくなった。依然として一票の格差が大幅に縮まる気配はない。民主などの7党は調査会の答申通り2010年国勢調査に基づく「7増13減」を求めている。共産党は定員削減反対で問題外だから話にならない。公明党は、2015年国勢調査に基づくアダムズ方式で「9増15減」を主張している。各党が主張する内容は、自分の党にとって有利にさせるか、悪くさせるかという一点に尽きる。自民は、地方の小選挙区から選ばれた議員が殆んどだ。格差是正は、地方の議席が減って都会の議席が増えることになるので、容認ならないということだろう。民主などの7党の主張は良く理解出来ない。何故直近のデータを大切にしないのだろう。その点公明は分かり易い。最も新しい人口データを使って、アダムズ方式で決めるべきだと言う。勿論、この方式が公明にとって好ましい選挙結果を得る図式には違いない。だが、それは偶々の結果であると見るべきだ。一票の格差是正は、民主主義の根幹でもある。これに関しては公明が最も正しく、自民が最も間違っている。
25日 2月 2016
民主党と維新の党が3月中に合流することが正式に決まったようだ。同時に党名も変更するという。衆院の勢力は、民主72人、維新21人だが、維新の半数は民主からの出戻りだ。実態は少し前に戻っただけで何の変りもない。しかも、政策議論はそっちのけで、吸収か、合流か、解党か、党名変更かだけに時間が費やされた感がある。まさに看板の掛け替え以外の何物でもない。民主の岡田代表は「野合で何で悪いんだ。日本の政治の流れを変える歴史的な日にしたい」などとコメントしているが、理念も政策も一致しない野合は悪いし、流れを変えるインパクトはないし、日本の歴史に残りようも無い。右から左までいてバラバラな民主に、更に維新が加われば、今以上に理念も政策も無い纏まりのない集団になることは目に見えている。民主の最大の欠点は、纏まりがなく腰が定まらないこと。それを是正するには、旧社会党と旧民社党の生き残りを切ることだ。それで理念も政策も立てることが出来るはず。数が力ではない。理念と政策が力ということを未だに理解出来ないようだ。真面な理念と政策があれば、厭でも国民の支持者は増えることになる。一方合流が決まり、脚光を浴びているのが、ゆるキャラの「民主くん」の行く末。民主の幹部がマジに行く末を心配していた。今回の民主/維新の合流劇は、極めて能天気で滑稽に映る。1票の格差問題は何処に行ってしまったのだろう。合流劇は議員たちの職場放棄にも見えてきた。
24日 2月 2016
九州電力は川内原発を昨年再稼働させた。但し、原子力規制委員会は今年の3月末までに免震重要棟を建設することを再稼働の前提条件にしていた。ところが九州電力は今になってその建設を取り止めると言い出した。現在原子力規制委員会と九州電力で揉めているが、再稼働した原発を止める気配はない。免震重要棟の重要性は、福島原発事故で証明されている。もしあの時免震重要棟が無かったらフクシマ50は高い放射線を受け現場に踏みとどまれずに、東日本は崩壊していたかもしれない。いざと言う時の最後の望みの綱なのだ。それを九州電力は、あっさりと不要と言って約束を反古にした。一方、原子力規制委員会は関西電力の高浜1、2号機の審査に合格を出した。高浜1、2号機はともに40年を超えている。原発事故以降の法改正で、原発の寿命は原則40年とされている。早くも原発運転の「40年ルール」は、骨抜きにされてしまった。そもそも原子力規制委員会の合否審査自体が妙だ。審査の時点で、審査基準を満たしていなくても、電力会社が今後満たすつもりと言えば、満たしたと判定してしまう。本来審査基準を満たした時点で審査し、合否を判定すべきものだ。審査に合格して再稼働した時から、満たすまでの期間に災害が発生する事態は全く考慮されていない。原子力規制委員会の審査は、まるで小学生の学芸会と同じだ。「やったつもり」が許される。田舎芝居とも言えそうだ。東京電力では、5年も経った今になって、メルトダウンの判定基準を決めたマニュアルがあったと言い出した。誰も気付かなかったと言っているが、隠蔽したのは明らかだ。事故直後にメルトダウンと発表すれば大パニックを引き起こしていたに違いない。それを今になって発表したということは、それだけ原発事故が風化してしまった証とも言える。原子力規制委員会も電力会社も、そして国民も既に原発事故の恐ろしさを忘れてしまったようだ。
23日 2月 2016
アップルのクックCEOがFBIからのiPhoneロック解除要請を頑なに拒否している。何故頑なに拒否するのだろうか。事の起こりは、カリフォルニア州の銃乱射殺人テロ。福祉施設を襲って職員ら14人を銃で殺害し、22人を負傷させた痛ましい事件だった。犯人はiPhoneでイスラム国と連絡を取っていたという。FBIはその内容からイスラム国との関係を解明したい。でも犯人のiPhoneにはロックがかかっている。ところがiPhoneには、ロック解除のやり方を10回連続失敗すると全ての情報が消えてしまう仕組みになっている。下手に手を出せない。だからFBIはアップルにロック解除の要請をしたようだ。だがアップルは、一度許せば、なし崩しになると拒否しているとのこと。常識的に考えれば、非常事態であるのに拒否するアップル側に無理があるように見える。ところが、この話には前段がある。あのスノーデンだ。スノーデンがNSAの世界的な監視活動を暴露した一件が背景にある。それ以前グーグル、マイクロソフト、フェイスブック、ヤフーと共にアップルもNSAの監視プログラムに協力していたことが暴露されてしまったことは記憶に新しい。その後これらの会社は暗号化を徹底し情報提供と決裂した経緯がある。この経緯を考えれば、アップルが頑なに拒否することも肯ける。問題の始まりを決めることは難しい。例えば、中国は6千年の歴史をベースに論拠を構成するのが常套手段だ。だからチベットも南沙諸島も中国のものだと主張する。中東の紛争も、戦後に英仏などが変な線引きをしなければ、今のような紛争は起こっていなかったのかもしれない。要は因果関係の起点をどこにするのかのスパンにある。スパン次第で正義にもなるし悪にもなる。アップルとFBIの対決は、最も短いスパンでの紛争とも言える。スパンの長さを解釈するのは自由だが、今は常識的にはアップルの方が正しいように思う。でも世界はどのような判断を下すのだろうか。
22日 2月 2016
もう40年近くも前の事だが、出張先の新宿で占いおばさんに手相を見て貰ったことがある。第3子は女の子になると言う。それを信じて一生懸命女の子の名前を考えた。女の子らしく「愛」という名前にしようと決めた。今は生まれる前から性別が分かるが、当時は分かる術はなかった。出産間近になり、もし男の子だったらどうしようと不安になった。男の子で「愛」という名前は拙いだろうと思い「愛」がダメなら「純」だとエイヤッと決めた。結局占いは外れ、男の子が生まれ「純」と名付けた。市役所で出生届に「純」と書いて提出したが、クレームがついた。「純」の糸偏の「小」の部分を「川」と書いたのだが、正しい漢字ではないと言う。結局書き直し「小」に直して提出した。我が家ではカミサンが書道の先生なので、子供たちは小学生の時に習字を習っていた。自分もふざけ半分に「薬」という字を書いてみた。これが意外と上手い。これトウサンが書いたんだよと長男に見せると意外な言葉が返ってきた。「薬」の「木」の下が「はねている」から間違いで、正しくは「とめる」だと指摘された。手書き文字は難しい。文化審議会漢字小委員会が、手書き文字の細かな違いはOKにする答申案を纏めているという。指針案では、漢字の点画の長短や方向のほか「つけるか、はなすか」「はらうか、とめるか」などを幅広く認めることになる。遅きに失したが文科省も時代の変化に追いつき始めた。手書き漢字も、やっと市民権を得たようだ。
21日 2月 2016
毎年2月11日の「建国記念の日」が近づいて来ると、もうすぐだなと少しソワソワする。このブログを書き始めた記念日が2011年2月13日だからだ。あれから丸5年が過ぎ6年目に突入した。文章表現の練習なのだから、内容は何でも良いから毎日書こうと心に決めて続けてきた。今日は1835日目に当たる。毎年2月13日頃にブログへの感想や反省を書いてきた。ところが、どういう訳か今年の記念日に気付いたのは、10日も過ぎた今日だった。5年間も毎日書き続けていると、書き続けた過去の事よりも、今後これから書く対象や内容の方に興味が湧くようになる。ブログを始めた当初は、いつまで続くか不安があった。この種のものは通常三日坊主になることが多い。3日も書くと書く対象が見つからずギブアップしてしまうのが世の常だ。振り返ってみて、一番辛かったのは2週間目頃だった。二番目が3か月後で、三番目が1年後。3年後は「よくぞ続けたものだ」と自分を褒めてあげたいと思った。それ以降は書くことが生活の一部になり、対象を考えることや文章作りが楽しくなってきた。石の上にも三年というが、3年が過ぎてトンネルを抜け出たような気がした。さて6年目には何が待ち受けているのだろうか。
20日 2月 2016
全国的に公園でのボール遊びを解禁する方向で検討が進んでいるようだ。自分が子供だった60年前は、放課後や休日の学校は遊び場だった。近所の友達とカクレンボや悪漢探偵や野球をして夕暮れ近くまで遊んだものだ。そして自分の子供が小学生になった30年前も同じ。子供を連れて校庭に行き、カケッコやキャッチボールを楽しんだ。小学校高学年になった長男はサッカーも上手かったが、野球も上手かった。夕方になると家の隣にある中学校の校庭で、長男の野球練習に付き合わされた。当時長男はダイビングキャッチをものにしようと取り組んでいたので、シートノックを頼まれた。ところが、自分は生憎の運動オンチ。長男が望む所にボールが飛ばない。シートノックを何回か失敗するうちに長男が怒り出した。「お父さんはワザとやっている」と怒って泣き出した長男の言葉が懐かしい。当時は公園や校庭を使って、間違いなく親子の会話が行われていた。だが、今はどうだ。黙って校庭に入ろうものなら、犯罪者紛いの扱いをされてしまう。公園でもボール遊びはご法度。砂場は柵が張り巡らされてネットが張ってある。子供が遊ぶには必ず親の手助けが必要だ。かくして校庭や公園は禁止禁止の立札で張り巡らされてしまった。今の子供にとって、校庭や公園は単なる空地だ。決して遊び場ではない。だが、その単なる空地を遊び場に変えようとする動きがある。過保護な大人がやっと大人に成長し、己の過ちに気付き出したという証なのかもしれない。校庭や公園を子供の遊びに開放することは大賛成だ。大人は責任逃れとは決裂して、子供の成長を見守る責務があると思う。