フランスでは、哲学がバカロレアの必須科目になっている。バカロレアとは、高校の最終学年末に全国で一斉に実施される大学入学資格試験のこと。試験当日は、生徒だけでなく国民の多くも、出題された問いと格闘するという。2026年の問題は「他者が不幸であるとき自分は幸福になれるのか」と「私たちは自分の言葉を制御できているのか」の二択選択。今年の論考は、フリードリヒ・ニーチェが1878年に著した「人間的な、あまりに人間的な」から選ばれた。教育相によると、この試験は「相反する視点の吟味や議論を教育の核に据えるという、この国の選択を物語っている」と言う。高校に哲学を導入したのはナポレオン。哲学を導入した発想は「正義や自由、国家のあり方、民主主義といった価値観を、全員で深く考え抜くプロセスを経てこそ、良き市民になれる」だという。国家試験で「哲学の問題」を解かねばならない。点数次第で将来の仕事を選択する幅が、広がったり狭まったりするのだ。日本も高校に哲学を導入すれば、やがて日本は見違えるほど良くなるはずだ。
去年の6、7月は猛烈に暑かった。それに較べ今年は6月が比較的低温だったが、7月は蒸し暑さが強烈になってきた。暑熱順化が言われるようになった。暑熱順化とは、体が暑さに適応することで、汗の量や質、皮膚血流量が増え、体温を効率的に下げられるようになる生理的プロセスだ。これにより、急な高温でも熱中症のリスクが低くなり、疲労感やだるさも軽減されることになる。2年前の記事に夏バテ防止の手法が書いてあった。冷たい食べ物を極力避ける。特に、かき氷やアイスクリームは絶対にNG。飲み物も基本的には温かいモノ。夏でもシャワーではなく、湯船に浸かる。就寝時にエアコンを使う場合は、首まで毛布を掛ける、とある。要するに、夏バテしないためには、身体を冷やしてはならないということだ。でも、エアコンは快適だ。エアコンが夏バテを促すとは考え難い。要は「過度に冷やすな」」ということで納得した。
国会会期があと2日に迫っている。高市首相の答弁拒否や政府・与党の強引な国会運営で野党の審議拒否を招き、いまだ政府提出法案が10本も残る大渋滞だ。1週間程度の会期延長が現実味を帯びてきた。でも、木原稔官房長官は13日に「延長の必要はない」と断言した。ところが翌日には修正した。官房長官とは、どういう役回りなのだろう。官房長官とは、政府と党のパイプ役となって、幹事長や国対と水面下できっちり話して調整する役割がある。的確に政情を国民に説明する役割もある。しかし、皇室典範改正案では一丁目一番地の「何故男子男系に拘るのか」の質問にすらも答えられなかった。国民を苦しませるインフレ税を強い経済と言ってしまった。この輩は政局センスも無い、高市の単なるイエスマンに過ぎないことは明白だ。木原がブレーキ役となれず、高市の暴走を許している構図にも受け取れる。高市も木原も退場すべし。
福岡県の自民党県議による内紛が勃発している。告発したのは吉松県議で中尾副議長にカツアゲされたというもの。自民党県議時代に議長と副議長の人事をめぐり、懇親会費やゴルフコンペ代、議会運営の根回しなどの名目で総額2000万円超をカツアゲされたという。カツアゲとは、暴力や脅迫、威圧的な態度を用いて相手に恐怖心を与え、金銭や物品を無理やり奪う行為を指す。福岡県議会は、これまでにもカツアゲ文化が定着してしまったどうしようも無い県議会だった。その裏では主役の国会議員が絡んでいる。麻生党副総裁、武田元総務相、そして藏内県議会議長の福岡県政を牛耳る3人の三つ巴抗争だ。吉松県議の今回の告発は、反藏内を公然と始める狼煙だったと言われている。実質は麻生対武田・藏内連合の戦いで、しかも武田・藏内連合の背後には今も大きな影響力を持つ古賀誠党元幹事長がいる。古賀は高市政権後の首相候補である林芳正総務相の後見人的な立場にある。かりに林政権が誕生すれば、麻生は福岡はおろか、中央政界でも一気に立場を失ってしまう。道理で、中尾副議長が音声証拠を突きつけられてもカツアゲの事実を認めない訳だ。彼等にとっては、天王山なのだろう。全員政界から去ってしまえと応援したくなる。
副首都関連法案の成立が目前に迫っている。副首都構想に固持しているいるのは当然維新。維新は過去2回も住民投票で否決されている。副首都構想を提唱する理由は、災害時のバックアップ機能、東京一極集中の是正、経済の多極化だ。考え方としては、二重行政を是正するためには当然進めるべき政策だと思う。でも、維新は住民投票を乗り越えられなかった。維新にとって最大の難関は「大阪市が無くなる」ことなのだ。大阪が副首都として指定される条件が、特別区が設置されていることことなのだから。つまり大阪副首都とは、大阪市が廃止されると同義語なのだ。大阪市民にとって、大阪市廃止は耐えがたいものなのだろう。でも、京都や愛知や福岡では、どう反応するのだろうか?法案の趣旨は良い。大阪が出来なくても、やってみるべきではないだろうか?しかし、大阪で不成立の時維新の存在価値は残っているのだろうか?たとえ法案が成立したとしても、国政に進出した維新の失敗政策としてレガシーに残るような気がする。維新にとって住民投票は正道だが、国会法案は邪道なのだから。
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